宇宙開発のために犠牲になった犬「ライカ」の話
今から60年前の1957年11月3日、当時のソヴィエト連邦政府は「スプートニク2号」というロケットを発射しました。
その前に発射されていた「スプートニク1号」にはなかった “乗組員” がこのロケットに搭乗していました。
この乗組員は犬の「ライカ」でした。
【宇宙開発に巻き込まれた犬たち】
犬がソ連のロケットに乗せられたのはこれが初めてではありません。
ライカより6年前の1951年、「デジク」「ツィガン」と名付けられた2頭の犬が弾道飛行ロケットに乗せられ、宇宙空間の入り口のところまで送られたことが知られています。
2頭は無事に帰還しました。
そのわずか1週間後、デジクは「リサ」という別の犬と一緒に再び宇宙に飛ばされましたが、帰ってくるときにパラシュートがうまく機能せず、2頭とも死亡しています。
生き残ったツィガンは宇宙科学者が里親として引き取ったといわれています。
その後、20頭以上の犬が宇宙実験のためロケットに乗せられたことが分かっています。
どの実験でも、ソ連の科学者たちはモスクワの町中に暮らしている野良犬を選んできました。
狭い路地で生活できる犬であれば、狭い宇宙ロケットの中でも問題なく生きられるだろう、というのがその理由でした。
小柄なほうがいい、しかし小さすぎてはいけない、毛の色も明るいほうが撮影で目立つので望ましい(当時は白黒フィルムのため)、といろいろな条件が求められていました。
またメスの犬という条件も求められました。
オスは排尿のときに片方の後ろ足を持ち上げますが、メスであれば腰を落とした姿勢で排尿するため、ロケット内のスペースが狭くても問題にならない、というのが科学者たちの主張でした。
【「ライカは宇宙で安楽死させた」という発表】
当初はアメリカでも、ライカを元気なまま生還させる予定らしい、と報道されており、ソ連側もこれを肯定していました。
しかし、結局ライカが地上に戻ることはできませんでした。
当時の米ロサンゼルス・タイムズ紙によれば、衛星が軌道に乗ってから1週間後、ライカは毒の盛られたエサを与えられ死亡した、ということになっていました。
「宇宙内で苦しみながら死んでいくことがないよう」に一息に命を絶ってしまう、というのがその説明です。
またソ連の科学者たちも、ライカは宇宙飛行中も快適に過ごし、痛みも覚えずに息を引き取った、そして宇宙科学に大きな貢献をしてくれた、と発表しました。
こうしてライカはソ連にとっては崇められる存在になり、ある種のアイドルやポップスターのような扱いまでされるようになりました。
ライカはマッチ箱、髭剃り、はがき、切手、チョコレート、タバコなどにフィーチャーされるまでの人気となったのです。
1960年には「ベルカ」と「ストレルカ」という2頭の犬が宇宙に飛ばされ、無事に生還します。
その後、アメリカが1961年にチンパンジーを、同じく1961年にソ連のユーリイ・ガガーリン氏が宇宙飛行に成功するなど、米ソの宇宙開発が進められていきます。
【45年後に発表された事実】
こうした発展を続ける中、1957年のライカの死はそのまま闇に葬られたままでした。
しかし45年後の2002年、ロシアの科学者がある発表を行いました。
ライカはおそらく、ロケットが軌道に乗った数時間後に、苦しみながら死亡したはずである、という事実でした。
スプートニク2号の発射という国家プロジェクトを急ぐあまり、当時のソ連のエンジニアたちはこの宇宙ロケットの冷却システムを十分にテストしていなかったのです。
その結果、ライカの乗せられていたカプセル型の部屋は極度の高温にまで上昇し、そのままライカを乗せた状態で5か月間にわたり軌道を周回しました。
そして大気圏に戻り、カリブ海上空で機体ごと炎に包まれてしまった、というのがスプートニク2号の実態だったということです。
『Soviet Space Dog』(ソヴィエトの宇宙犬たち)という本を書いたOlesya Turkina氏によると、ライカを搭乗させる計画に携わった科学者の一人はこう語っていたそうです。
「時を経るにつれて、気の毒に思う気持ちが強くなる。あんなことをするべきではなかったんだ。ライカの死を正当化できるほど私たちは自分の責務を分かっていなかった」。
(スプートニク2号から送信されてきたとされるライカの映像)
【動物たちの犠牲によって発展してきた科学】
宇宙開発だけではありません。
私たちが日常使っている薬なども、まずは動物で試してから人間に使われることが多いものです。
そのおかげで進歩した科学の恩恵を私たちは毎日享受しているわけです。
今の便利な生活のために犠牲になってくれた動物たちがいたことを、時には思い出し、感謝したいと私は思います。