「悲しむカンガルー一家」ネットで話題 専門家たちは疑問視
この写真はオーストラリアのクイーンズランドで撮影されたものです。 すでにネットで出回っているので見た方もいるでしょう。
オスのカンガルーが死にかかっているメスのカンガルーを抱きかかえ、息絶える前に隣にいる子供の顔を一目見せてあげようとしている、そんな感動的な写真として話題になりました。
【「悲しむ」カンガルー一家】
人のように涙を流したり顔を崩して悲しみを表したりすることもありませんが、その全体の様子は、まるで自分の愛するパートナーの死を嘆き悲しんでいるようだ、と多くの人の眼には映りました。
こちらの写真では子供が自分が育ったお腹の袋に顔をうずめようとしているように見えることから、この子はきっとお母さんにさようならを伝えているのだ、という声が上がり、涙を誘う画像としてシェアされていたのです。
【専門家は大いに疑問視】
しかし、シドニー大学の研究員であるスリープマン氏によると、このようなネット上の解釈は明らかに間違っている、というのです。
スリープマン氏はこのオスのカンガルーは、メスや子供のカンガルーと家族関係はなく、母子2匹でいたところに現れてメスと交尾をしようとしたのではないか、と述べています。
その接触の際、大型のオスが体の小さいメスに向かって乱暴に動いたため、致命的なケガを負わせることになった可能性が高い、ということです。
カンガルーのオス同士のケンカはしばしばテレビなどでも取り上げられており、尻尾だけで体を持ち上げ相手に両足で蹴りを入れるその姿には、驚かされることがあります。
このオス同士のケンカはエサの取り合いではなく、メスの奪い合いが主な目的で行われるものです。
そして相手を打ち負かしたオスは、堂々と目的のメスの相手になることができます。
しかしこれも決して「愛を育む」などという様子ではなく、むしろ「勝者」であるオスがメスに襲いかかるようなことが多いようです。
そのため、メスは自分の身に危険を感じ強く抵抗しようとし、オスと取っ組み合いになるような場合も多くあります。
この「悲しむカンガルー一家」に写っているカンガルーのオスとメスも、このような状況に陥り、メスは運の悪いことに致命的な傷を負うに至った、と理解するほうが筋が通るというのが専門家の説明です。
【「人≠動物」という考え方】
同じくこの写真についてある文化人類学者は、動物は「死」という概念自体を持っていない、つまり同類の死を悲しむということは考えられない、と述べています。
このカンガルーに限らずネット上で出回る動物の写真や動画については、素人の勝手な解釈が加わるため動物たちの行動を「擬人化」してしまう傾向がはなはだしい、との指摘が多く出てきました。
この擬人化は、私たちが動物の自然界での行動をゆがめて解釈してしまうことにつながり、生物学に対する誤解の原因になる、と苦言を呈する人もいるのです。
野生動物を勝手にペットとして飼おうとするような例は、動物たちの行動を勝手に人間の尺度で「解釈」してしまう人たちの中に出てくる、という指摘もあります。
動物のみならず自然界・自然現象をも人間の尺度で見ようとする人たちは、逆に人の解釈に当てはまらないものについては目をそむけ、受け入れずに否定しようとするため、結果として「人間至上主義」のような排他的な発想になりがちである、という警告を発する人もいます。
【問題なのは「人間本位」】
しかしその一方で、動物には「考え」や「感情」といったものはなく、人にはまったく理解できない別物であるという考え方にも問題があります。
類人猿はボスを中心とした社会を形成して生活する動物であり、オオカミも一つの群れの中ではある種の社会がつくられていることが分かっています。
これらの例について見る限り、動物の行動に人と同じものを見出すことがあっても何ら不思議ではないのです。
この議論を報道したニュースの一つには「あなたがカンガルーの写真の中に見出すものは、カンガルーについて以上に、あなたについて物語っている」と述べているものがありました。
「悲しむカンガルー一家」というネット上の騒ぎは、動物の行動に対する正確な理解という点では行き過ぎた部分があり、人間本位の勝手な解釈をして騒ぎ立てしまう不適切な例であったかも知れません。
その一方「動物は人とは全く別物だから理解できないし関係もない」などという態度で一方的な線引きをするのも、同様に人間本位ということになるでしょう。
(参考)
Anthropomorphism: how much humans and animals share is still contested | Science | The Guardian